富士眼鏡商会、誕生
創業者・金井武雄
1910~1999
金井コヨ
1916~2006
株式会社富士メガネの前身「富士眼鏡商会」が、樺太(現サハリン)の豊原市(現ユジノサハリンスク)で産声を上げたのは、昭和14年(1939年)10月18日。創始者・金井武雄29歳の秋であった。わずか4坪半(約14.85m2)の小さな店であったが、自らウィンドウや看板をつけ、外装を整えることで、上品で風格のある店構えに作り上げた。
永遠に力強く、富貴な名前にしたい。そう、あの富士山のように、と「富士眼鏡商会」と命名。「富貴」の「富」という意味合いも好ましかった。
豊原市街を包み込むように広がる背後の山々が、金井武雄のこの日の決意を映しているかのように、燃え立つほどに紅葉していた。体が少し震えたのは、冷たい秋風のせいだけではないだろう。
開拓者の夢の都・樺太の豊原市
日露戦争後の明治38年(1905年)、ポーツマス条約により北緯50度以南、いわゆる南樺太は日本領であった。樺太は、面積全体の8割を大自然林が覆い、林業、製紙業が隆盛を極めていた。また地下には、石炭・石灰石などの鉱物が眠り、近海は世界3大漁場に数えられるほどの水揚げを誇り、まさに陸・海ともに資源の宝庫であった。この夢のような新天地を求めて、本土から移住した日本人は約41万人。大正12年(1923年)には、稚内から大泊(現サハリン・コルサコフ)間に連絡船が就航した。稚内桟橋は当時としては珍しい鉄筋コンクリート・タイル張りの2階建て。春先には樺太のニシン漁へ出稼ぎに行くヤン衆で待合室はあふれ返っていたという。大正末期から昭和初期には、日本全国が鉄道で結ばれて旅行熱が高まり、樺太へのガイドブックも発行されている。作家で詩人の宮沢賢治、民族学者の柳田国男、詩人の北原白秋、歌人の斉藤茂吉、作家の林芙美子など、多くの文学者もわざわざ樺太へ足を向けている。
その首都として、樺太庁が設置されていたのが、豊原市であった。鉄路に沿って東西南北に整然と区画され、いまの札幌の街並みを思わせる美しい景観が広がっていた。駅を背にまっすぐ伸びる、現在の札幌の駅前通りにあたる通りは神社通り、そして交差するメインストリートは札幌と同様に大通りと呼ばれていた。駅前の各通りには、さまざまな商店がひしめきあい、1年中活気にあふれていたという。通りには街燈が灯り、ナナカマドの並木道が秋には真っ赤に色づいて、季節の訪れを鮮やかに告げていた。まさにハイカラと呼ぶにふさわしい、しゃれた街並みであった。
波乱への船出
豊原市の街並
豊原郵便局
「富士眼鏡商会」は神社通りに面し、いわば豊原駅前の1等地に誕生したのである。
夢の都・豊原市は、金井武雄の長年の夢をかなえるにふわしい街だった。だが、この小さな第1歩は、その後に続く波乱の歴史への船出でもあった。
とりあえず店は構えたものの、資金はまったくなかった。商品は、外販用に鞄につめていたフレームとレンズだけ。陳列しても貧弱さが目立つため、棚に空箱を並べていた。
出店のあいさつのために、外商時代からお世話になっていた岡田夫妻を訪ねた際に、結婚することを勧められた。そして竹田コヨを紹介され、縁談がまとまったのである。
コヨ夫人は、北海道の当別出身。10人兄弟の7番目として生まれ、小学校6年生のときに父母、兄弟とともに樺太へ渡った。
金井夫妻は資金調達には大変苦労したが、代金のあと払いを許してくれた商店や、いつも快く借金に応じてくれた妻の兄弟などに助けられ、どうにか商品を買い入れることができた。借入金は必ず期日前に利息をつけて返却。さらに万一の場合にも迷惑をかけないよう、また妻に肩身の狭い思いをさせないよう、当時としては最高額の生命保険に入っていた。同時に体を鍛えるために、冬は氷が張るほどの冷たい水がめの水で、冷水摩擦を続けていたという。金井武雄のこのような真摯で律儀な姿勢が、周囲の人たちからの厚い信頼となって注がれていたのだろう。
サービスという言葉がいまのように浸透していなかった時代、夫婦ともにとにかくお客様に喜んでいただくこと、親切にすることだけを考えていた。メガネの簡単な修理は無料でしていた。開店当初は学生が多く来店していたため、本人の名前を入れた鉛筆をプレゼントし、大変喜ばれたという。やがて、学生たちの親や教師なども来店するようになり、夫婦二人三脚の小さな店は、樺太の島民に深く愛されるようになった。西海岸にあった現・味の素株式会社が経営する炭鉱の所長さんは、毎月上京していたにもかかわらず、メガネだけは必ず富士眼鏡商会で買い求めていたという。もちろん金井武雄の高い技術力を認めてのことであった。
戦況の悪化、そして召集
豊原中学校
豊原神社
金井夫妻に少しずつ希望の光が見え始めていた頃、戦況は日毎に激しさを増し、問屋の品物は刻々と粗悪になっていった。メガネ枠のセルロイドの原料が、火薬の原料と同じであるため、フレームの原料が不足していったのである。
そして、肺の病が癒え元気になってきた金井武雄にも、昭和19年5月、とうとう召集令状が届く。コヨ夫人は、長男の手を引いて次男を背負い、駅の外れで出征していく列車を遠くまで見送った。とにかく元気でいてくれることだけを祈ったという。
武雄は横須賀海兵団へ入隊、そして静岡の大井海軍航空隊へ応召された。陸軍ではなく海軍であったこと、そして体力がなく難聴であったことが、ここでは幸いして前線へ行かずにすんだ。また、腕を骨折したために隊外病舎に入院、特攻隊を免れた。
樺太では、警察が経済活動を管理する統制経済となり、昭和19年には豊原市全市の商店が1つの統制組合に統合された。富士眼鏡商会も豊原地区配給統制組合文化品部会眼鏡部の名のもと、店から強制的に立ち退きさせられた。商品はすべてその組合に納めたが、幸いにも小売価格で買い上げられ、終戦の5日前に小切手で受け取っていた。この小切手は、のちの札幌での店舗取得の資金になった。
奇跡的な再会
昭和初期の樺太・豊原
当時の街並みを思わせる建物
昭和20年8月15日、終戦。コヨ夫人は前もって兄が手配してくれていた道外移動証明書を取得していたため、夏の暑い盛りであったが、持っていた衣服を全部着込み、大豆を煎ったものを主食として、幼い2人の子どもの手を引き、すぐに大泊港へと向かった。港は引揚者でごった返し、狭い桟橋を我先にと押し合いながら貨物船へ乗り込んだ。足場が揺れ、人が海に落ちても助けることさえままならない混乱の中、コヨ夫人は無我夢中で2人の子どもを必死に守った。そして稚内港に無事着岸し、18日には陸別へたどり着き、夫・武雄の妹・静枝が嫁いだ先の渡辺平吉氏にお世話になった。1日遅れで出港した引揚船・小笠原丸は機雷により沈没。同じ日豊原駅前はソ連軍からの爆撃を受けている。大泊港で乗船待ちの避難民は、約5万人。樺太では8月23日まで日ソ間の戦闘が続き、24日にはソ連軍が進駐して、残留者は抑留生活を強要された。コヨ夫人の機敏な判断が、まさに九死に一生を得る結果をもたらしたのだ。
一方、金井武雄も一刻も早く帰郷しようと、まだ骨折が直っていない腕に荷物をかかえて汽車に乗り、東京へ。貨車に乗り換え、煤を頭から浴びながらも青森に到着。埠頭は乗船を待つ人でごった返していたため、心もとないほどの丸木船をどうにか手配して乗船した。だが、津軽海峡の真ん中でエンジンがストップ、風雨も強まり、難破の危険を感じながら夜を明かした。どうにか命からがら函館へ到着し、やっとの思いで陸別へ。そして、前日にたどり着いていたコヨ夫人、子どもたちと再会。双方とも感激で、言葉にはならなかったという。
幸せという一言は、このような瞬間のためにあるものかもしれない。